『みんなの金融―良い人生と善い社会のための金融論』より一部抜粋
(本記事は、駒村 康平氏の編著『みんなの金融―良い人生と善い社会のための金融論』=新泉社、2021年5月27日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
※慶應義塾大学駒村康平教授講義部分から抜粋
近年の脳神経科学の研究で、加齢が認知機能に大きな影響を与えることが明らかになってきています。
脳神経科学の知見を生かした神経経済学の意思決定モデルとして有名なのが、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンのDual Process Theory(二重過程理論)です。
その理論では、人間の意思決定は、大脳辺縁系が基盤になる「早くて(ファスト)、衝動的な意思決定」システム1の情報処理や意思決定を、前頭前野を基盤とする「ゆっくり(スロー)と熟慮的、合理的な意思決定」システム2が制御すると想定されています。
しかし、加齢とともに後者の基盤である前頭葉が衰え、システム2の機能は低下し、次第に衝動的なシステム1の意思決定の影響が強まる可能性があるのです。
このように加齢とともに意思決定は直感的、感情的な部分の影響を受けやすくなり、さらに記憶力や一時メモリも低下すると、脳が複雑な問題を処理することが苦痛になり、過去の経験に従った意思決定をする傾向が強くなるわけです。
ここで大事になるのは、自分の意思決定の過程、自分の知識不足、認知機能の低下などを、自分自身で認識できているかどうか、つまり「自分自身を知る」ことができているかどうかということです。
合理的意思決定である「規範的意思決定論」によると、意思決定の際に人は、①選択によって望ましい結果を得られ、あるいは望ましくない結果を避けられる確率を理解している、②選択によって起こりうる結果の価値がわかっている、③確率と結果から組み合わされる選択肢を比較する能力がある、④意思決定の過程、知識や能力における自らの限界を理解している、つまり自分自身を知っている、すなわち「メタ認知」がある、という4つを想定しています。
特に大事なのが、④の「メタ認知」で、「自分自身を知る」、すなわち自分の知識や判断力の限界や、いま自分がどのような状態か―例えば、今日はいいことがあったので、少しテンションが高く、「自信過剰」になっているとか、気弱になり自信過小になっている―といったことがわかっているという点です。
特に加齢とともに多くの人が、自分の能力を過大に評価する「自信過剰」の傾向が強まるとされています。特殊詐欺の被害者の多くが、「自分だけは大丈夫だ」と思っています。
意思決定の際は、情報の収集とその評価だけではなく、自分の判断力の揺らぎにも気をつけないといけないわけです。
では、加齢に伴って意思決定にどのような揺らぎが生じるのでしょうか。
Strough,J.,Parker,A.M.,& de Bruin,W.B.(2015)は、加齢に伴う意思決定における揺らぎがどのような形で発生するのかを分析しています。
多くの意思決定コンピテンシーのスコアが年齢の変化に対して逆U字形を示しています。すなわち意思決定の質は、若いときから青年・中年期までは年齢とともに改善し、40〜50歳代にピークを迎え、その後は低下する可能性があることを示しています。少し細かく見ていましょう。
①まずサンクコストへの対応です。これは「損切り」への対応力です。おもしろそうだと思って期待して映画館に入ったが、始まってすぐにつまらない映画だとわかったとしましょう。
入場料はもう戻らないので、これ以上つまらない映画を見続けて、時間を失うのはもったいないと映画館から出て行くかどうか。この入場料が「サンクコスト」です。
入場料に加えて、時間も失ってしまうので、もう「サンクコスト(=入場料)」をあきらめて映画館から出て行くことが合理的な意思決定となりますが、なかなかそう割り切れないのが人間です。しかし、意外なことに高齢者はサンクコストのあきらめは得意ということになっています。
②「社会的規範への認識」、つまり社会的ルールを守るという項目については、年齢によってそれほど落ちていません。これらに対して、③前述の「自信過剰の問題」は、他人からの客観的な評価よりも経験や知識に基づく自身の判断力を「過大評価」する傾向のことです。
自信過剰は、若年者と高齢者に発生しがちです。自信過剰になっている人には、どのようなことが起きるのでしょうか。
自信過剰の高齢者は財産が早く減少することが確認されています。米国・シカゴにおける研究では、軽度認知障害や認知症でない高齢者でも、認知機能の低下により、金融詐欺に遭いやすくなることが確認されています。
特に、学歴が高い、金融取引の経験がある高齢男性は投資詐欺に遭いやすいという研究があります。アメリカでは高齢女性はチャリティ詐欺に遭いやすいという研究もあります。
④「リスクへの一貫性」とは、例えば、「来年、地震が発生する確率」は「これから5年間で地震が発生する確率」よりも高くないはずですが、こうした判断が加齢とともにできなくなります。
⑤「フレーミングへの抵抗力」とは、すなわち相手の説明方法によって意思決定に変化が発生することです。
例えば、値札に400円と書いてあったら買わないが、同じものが「通常価格600円が本日に限り400円」と書いてあったら買ってしまうということです。加齢に伴い表示や表現で誘導されやすくなるわけです。
⑥「選択肢を比較する能力」とは、それぞれの属性における属性値(確率、利益等)が異なる選択肢をすべて比較できる能力で、先ほど話した銀座の百貨店へのアクセスのように、それぞれの確率と利益を考慮して判断する能力です。こうした能力もまた加齢に伴い低下します。
ただし、これらの研究はまだ研究途上にあり、今後の研究成果が待たれる部分も多く残っています。
意思決定の質の変化を金融の問題で考えた研究があります。
アガルワル等(Agarwal S.etal.[2009])は、2000年〜2002年にかけて、金融機関から個人の住宅ローンの実質金利(APR=Annual Percentage Rate)とクレジットヒストリー(信用履歴クレジットヒストリー[クレジットカードの限度額使用率、支払い履歴、破産等のネガティブ情報]のスコアが低い場合、金利が高く設定される)に関する1万4800人分のデータを収集し、学歴や所得など様々な要因をコントロールした上で、年齢によって住宅ローンやクレジットローンの実質金利がどのように変化するかを分析しています。
支払い遅延や焦げ付きが発生すれば、金利は高くなります。そういうことがなければ金利は低く設定されます。
その結果、若いときは住宅ローンやクレジットローンの実質金利が高く、次第に低下し、50歳代前半あたりで最も低くなり、その後は再び上昇することが確認されています。
つまり金融資産の管理運用能力は50代前半でピークになること、つまり金融資産の管理運用能力は逆U字形になっていることを明らかにしています。
このように認知症ではなく、正常な加齢の範囲においても、加齢に伴う認知機能の変化により、高齢期には次第に経済的な意思決定能力、金融資産の管理・運用能力は低下します。
さらにMRIなどを使って脳の状態を見ながら、被験者に経済的な問題を解かせ、脳のどの部分が大きく反応するかといった医学や脳神経科学と経済学が連携した研究も行われるようになっています。(慶應義塾大学駒村康平教授)
<抜粋箇所著者プロフィール>
駒村 康平(コマムラ・コウヘイ)氏
慶應義塾大学経済学部教授、ファイナンシャル・ジェロントロジー研究センター長1964年生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。博士(経済学)。国立社会保障・人口問題研究所、駿河台大学経済学部助教授、東洋大学経済学部教授などを経て、2007年から慶應義塾大学経済学部教授。厚生労働省顧問、社会保障審議会委員(年金部会、年金数理部会、生活保護基準部会部会長、障害者部会部会長、生活困窮者自立支援及び生活保護部会部会長代理、人口部会)、金融庁金融審議会市場WG委員、社会保障制度改革国民会議委員など。著書に『日本の年金』(岩波書店)、『社会政策』(有斐閣)、『中間層消滅』(角川新書)、編著に『検証・新しいセーフティネット』『社会のしんがり』『みんなの金融』(新泉社)など多数。